早送り

「映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形」(光文社新書)の著者の稲田豊史氏に対する朝日新聞のインタビュー記事を読んだ。

ビデオ、DVD、そして配信というかたちで、映画のオーディエンスが画面操作しながら見る手段ができた。読書では普通にskimming, scanningで読むし、拾い読みだけで終わることもある。場合によっては後ろの方から読むわけで、映像もオーディエンスが見方を選べる状況が生まれている。テレビもザッピングで見られているわけで、つまらなければすぐにチャンネルを変えられている。映像作品の見方もオーディエンスに選ぶ手段が広がり、早送りで見る若者が世間的にフィーチャーされた。でも年輩の人も早送りで見てますよ・・。

映像作品の製作者たちは、早送りで作品を見ることに異を唱えているようだ。これはオーディエンスの側に主導権がある話しで、どんな見方をするか、オーディエンスが決めればよいので、いちいち製作者が言うことではあるまいと思う。

製作者の特権意識は酷く、すばらしい作品はあるものの、多くの凡庸な映画を延々と2時間余り見せて、それでいいだろという態度をとってきた。製作サイドはこれに観客が満足していたと思っていたのだろうか。いい気なものだ。テレビなどの媒体ですごいすごいと宣伝をして、映画館でがっかりという体験は少なくないわけで、声をあげる手段が観客にはなかったので、おとなしく見ているように見えただけ。製作サイドは観客の沈黙の上に長年ただ乗りしてきたのである。そのただ乗りができなくなって、何か言っているというのが、たぶん製作サイドの早送り批判であろう。

たくさんの映像作品のうち、見る価値があるか、自分なりに楽しめるか、オーディエンスはどこかで判断しなければならないわけで、早送りでさっと見て判断するのは仕方がないと思う。製作サイドの無意識の傲慢がこういうところで打ち砕かれるのは良いことだろう。宣伝(扇動)と仲間褒めで成立していた閉鎖的な業界に見直しを迫ることになるはずで、プロフェッショナリズムがこのあたりから出てくる可能性がある。早送りで見るのがもったいないような、観客から愛される作品が出てくるかどうかが一番重要で、早送りをめぐる論議は、業界の閉鎖性(宣伝主義と仲間褒めと特権意識(傲慢))がそぎ落とされるきっかけになっていくだろう。Albert O. Hirschmanが退出exitと発言voiceという人々の選択について書いているけれども、早送りで見るという話しは、ある意味、こうしてメディアで伝えられることで、発言オプションを使った一種の抗議となっている。製作者の傲慢によってそれほどでもない作品をすごいだろと長年宣伝漬け・仲間褒めの情報操作を介して見せられてきた観客たちのちょっとした抗議行動である。

そういえば、TVerも倍速で見れば短い時間で番組が見られると宣伝していた。たしかにTVerは途中を早送りで見ることもある。バラエティ番組などでも話しのテンポがよくなかったり、本人が思うほど面白くない話しをしている出演者の部分は早送りにして次を見ている。

netflixの「トークサバイバー」も芸人さんの話しでこれは面白くないと思ったら次の人のしゃべりまで早送りして見た。そういう選別をされているのをたぶん演者は知らない方がよいと思うけれども、そういうものですよ・・。