迷走と瞑想

blogを書いてみたいと思っていたのだが、本や映画の感想を書いておこうというのが最初の動機だが、ほとんど最初の動機を裏切るかたちで文章をあげている。もうblogを止めた方がよいか・・と思うのだが。ニュースを見て反応するのはよくないと思った。いまの政治はめちゃくちゃなので、これはマズいという話しばかりになってしまう。ここら辺で閉じた方がよいと思う。迷走したわけで、意味がなかったのかも知れない。瞑想して暮らした方が、自分のためによいのだろう。ちょっとしたノートとして使えればよかったが時事ネタを見ない生活ができるようになるまで、もう少し時間がかかりそうである。とりあえずこのblogは休止しようと思う。

 

 

「テレビの時代」の終わり

youtubeの動画を見るようになり、いろいろ才能を持った人がいるものだなぁと気づく。

「テレビの時代」は確実に終わりつつある。

基本的に人々はテレビ視聴をしなくなっている。生活時間調査でもテレビ視聴習慣の減少は出ている。私自身もほとんどテレビを見なくなった。録画もしなくなっている。TVerのおかげかも知れないが、定時にテレビを見る習慣はなくなった。

youtubeの動画の質はずいぶん向上している。内容は玉石混淆だが、見ていると面白いものが多い。政治的プロパガンダで酷いもの、差別を助長しそうな酷い内容のものもあるが、勉強になるものもあるし、愉しめるものも少なくない。

これだけ動画があると、自分が見たいと思うものを見ていればよいという状態に変わっていく。テレビを軸にした生活はしなくてよいのである。

報道の質が低下している。テレビや新聞の政治ニュースが大本営発表型になり、政府批判をしなくなっただけでなく、基本的な事実を伝えなくなっている。政府のプロパガンダをそのまま既存メディアが流しているからである。

戦前・戦中の報道に似てきているのだろうと推察する。

道理を否認する報道が続き、道理から外れていけば、この国の将来はあまり明るいものにはならない。「ニッポンスゴイ」などと言っている状況はすぐになくなるので、非常に苦しい時代が来るだろう。報道の腐敗・退廃は衰退を加速するだろうが、報道には責任論・責任感覚がない。政府の言いなりで適当なことを流すメディアから、読者や視聴者が退出するのは当たり前である。

NHKはまともな報道をしなくなっている。ドキュメンタリーやノンフィクションでも力を落としている。修正史観にどっぷりつかった取材と報道をしていれば力を落とすのは理の当然というべきか。

芸人番組全盛に見えるが、笑いが薄い。身内の褒め合いが続いている。こういうジャンルはだいたい飽きられて衰退する。フジテレビの27時間テレビの視聴率が低かったのは、メイン司会6人を中心に、視聴者からほぼ見限られたということである。芸人たちはラジオで成功だったなどと仲間ぼめをしているようだが、数字はついてきていない。見るほどのものではなくなっていることが示されていると取る方が素直だと思う。

配信でコンテンツにアクセスする時代へ移り変わりつつある。テレビは報道そのものが政府癒着の姿勢をとることにより、テレビを見る必要がない選択を加速させたようである。テレビは臨場感を伝えられるメディアなのに、政府の言いなりになってその特性を自ら捨てたのである。エンタメも芸人にお任せでやり続けても、だんだんと「求められていない」現実が視聴率ではね返ってくる。ドラマは配信コンテンツで好みのものを見る時代へこれから急速に変わるだろう。

生活様式は大きく変わってテレビを見ない生活、とくに見なくてもよいという生活が若い世代から淡々と広がってきている。テレビ産業の傲りも、ここまでという状態になるだろう。これはテレビ関係者たちにとって、彼ら彼女らの傲慢を「過去の悪さ」の話しにできて都合がよいかも知れない。テレビには未来がない。

日々の感想を記すつもりで、ブログをやってみたのだが、極右政治に対する嘆きばかりになってしまった。そろそろ嘆きは止めて、メディアの腐敗について悲しむのも止めなければならない。もう少し自分がほんとうに好きなことを書いていくことにしよう。改憲潮流で、この国は確実に衰退に向かっているけれども、政官財メディアは衰退に加速する動きであり、衰退へ圧力をかけている。15年間の戦争の帰結を見ればわかるように政官財メディアいずれも責任はとらないことはわかっている。民主主義は再生する可能性があるが、これだと、かつて保守が言っていたような伝統の方は店じまいしていくおそれがある。自民は盛んに伝統を強調して復古主義を扇動したが、いまとなっては復古主義の扇動さえやめて露骨に戦争国家へのシフトを唱えている。旧統一協会日本会議という思想的には相容れないはずの、つまり伝統を完全否定する前者と伝統の復古を主張する後者に相乗りして改憲を強行したがっているわけだから、この分裂は失敗を予定しているのと同じであるし、どちらのセクトに引っ張られても失敗は確定である。つまりどうやってもうまくいかないことを、マスコミも翼賛しながら政財官一体で進めている。労働組合も連合のようにこの流れと一体化しているので、どうしても失敗したいと言っているのと同じである。そういう場所でこれから人生を送らなければならない若い世代には希望はないだろうし、老年世代も明るい世界を構想できなくなっている。希望のない時代を生きるとはどういうことなのか。ブログを書くということも、自分の読んだり見たりしたものを中心に少しずつ考えて行く機会とするほかないのだろう。

銃発射事件

www3.nhk.or.jp

事件の解明が必要という報道はあるが、いまの自公政権が情報を正直に公開するかどうか心配である。そもそも都合の悪いことを隠し続けてきた自公政権である。正直に今回の事件について情報を出すかどうか。マスコミは自衛隊防衛省の発表をそのまま伝えるだけの大本営発表スタイルで報道を続けている。

今回は自衛官が狙われたが、こういう事件が起こるということは、市民や一般の人々が銃に狙われる日は遠くないかも知れない。自民公明政権の戦争国家づくりの序曲のような事件で、これによって銃口が誰に向けられるか示唆している。政権暴走のなかで防衛費増額を許せば、どんどんおかしな方向に進む。

政府は情報を出さない。報道は大本営発表に隷従。今後この国がどうなるか。1945年の焼け野原を忘れた政治と報道の傲りが見えてくる。

鯱が転げ落ちる城

名古屋市が酷いことになっているようだ。

digital.asahi.com

記事を読んで唖然とする。

討論会で差別主義者の発言を野放しにしたらしい。

名古屋城天守閣の復元はそんなに大事なのかわからないけれども、市長はこれにこだわっているらしい。他に優先順位の高い政策はないのだろうか。

討論会における差別発言については、市長は"一部は「よう聞こえなかった」"と説明している。"「自由に言ってもらうのが前提で、広い気持ちで考えるのが普通ではないですか」"ー差別発言容認ともとれる発言が記事になっている。市長だけでなく”市の担当者は差別発言があったことを認めた上で、「個人の勢いで言われたことで、制止することはしなかった。今後の運営の課題としては受け止める」と話した。”ということで、市長に同調していた模様。

天守をめぐっては、2018年5月に河村たかし市長が「本物性がなくなる」としてEV不設置を表明し、代替となる技術を公募すると発表した。

とのことだが、「本物性」とは何だろうか。天守閣復元について、電気系統や防火設備なども「本物性」の論理で取り付けないのかも知れない。天守閣については現代の技術であるガラス窓もつけないということかも知れない。17世紀の築城した際の城がそのまま残っているならば、EVをつけないという判断はあり得るけれども、復元は復元で本物ではない。本物ではないけれども、本物性を求めるということらしいが、この「性」は何だろうな・・と思う。名古屋市の側で何か定義しているのかも知れない。消防法は守るけれども、バリアフリーの法律は守らんでよ・・という論理があるとすれば、守る法律と守らない法律の違いはどうやって区別しているのだろうか。そしてそれは行政としてどうなのか、名古屋市の職員さんたちは多少は議論しているだろうか。

差別発言を野放しにしたところに、いまの名古屋市政の腐敗が見える。討論者から"「エレベーターは誰がメンテナンスするの。どの税金でメンテナンスするの。その税金はもったいないと思うけどね。"という発言があったと記事は伝えているが、名古屋城の入場料は何に使われるのだろうか。こんな感じであれば、無理に復元しなくてよいのではと思う。現在の名古屋城で十分観光資源になっているはずである。

尾張名古屋は城でもつ」そうだが、「我慢せいよ」という差別論者が跋扈する名古屋そのものがもたないなぁ・・と思うのだ。「尾張名古屋はもたない」ので城の天守閣復元も無理にしなくてよい。名古屋と名古屋地方、鯱以前、そもそもヒトがダメになっているな・・と思う。

若者がコンビニにホームレスの女性を置き去りにしてからかう動画は名古屋だった。回転寿司の迷惑行為は岐阜だったようだが、名古屋地方である。名古屋と名古屋地方、荒んでいるのはなぜか・・と思う。

個人の意見としては、天守閣復元は中止してよいと思うなぁ。いまの名古屋城で十分観光資源になっているだろう。

さんまさんのコメント

さんまさんのコメントは面白かった。

www.tokyo-sports.co.jp

吉本の芸人さんたちは松本人志氏の側に立っていろいろ言っているが、やはりさんまさんのコメントが面白い。

言い換えると、さんまさん引退後の吉本はちょっと怖い。笑いではなく徒党を組むことに力を注ぎそうである。学校でお笑い芸人さんを養成するとどうしても派閥主義になるのだと思う。NSC何期ということばかり言う芸人さんを見ていると、彼ら彼女らの序列はお笑いを見る観客にはまったく関係ないことだということがわかっていないようだと思う。その場所で面白いか面白くないかで観客は見るので、彼らのポジション取りは客から見てまったく無意味なのだ。たいして面白くない芸人さんが中田さんの攻撃に精を出しているのを見ると、みっともないなぁ・・と思う。そんなに派閥への忠誠が大切なのだろうか。お客には関係ないのにな・・と。

吉本の芸人さんはどんどん派閥主義に傾いている。この意味で、芸能や芸から遠ざかっているのである。そういう芸能が栄えるか、栄え続けるか、というと、そんなことはなさそうだ。笑いの時代はすぐに終わるような気がしている。さんまさんの退場がひとつの目印になる。

じわじわと目立つ「体調不良」の人々

ニュースを見ていると、体調不良で休むメディア有名人が目立つ。

メディアは示し合わせたように病名なり状態を伝えなくなっているので、新型コロナとの関係を疑ったり、あるいはワクチン接種の副作用ではないかと憶測がネットで流れることになる。

メディア有名人は公人的な位置づけになるので、ほんとうは原因をある程度公開してほしいと思う。新型コロナではないなら、新型コロナではないと言ってくれた方が安心である。5類変更で統計が毎日出てこなくなり、それでいて終息はしていない。街では半数近くであろうかマスクをしていない。第9波の入口にあるのではという推測もネットの論評で見たが、情報がいわば統制されて、新型コロナの状況が見えないので、わからない。

新型コロナが終息したわけではない。店舗によっては、きちんとマスク着用や店舗への入店について~人までとうたっているところもある。

マスクを外し始めた人々を見ていると「油断」があると感じる。

メディアは有名人たちの休業を「体調不良」で片づけず、具体的な病名なり健康状態なりを報道してほしい。少なくとも新型コロナ感染かどうかくらいはきちんと伝えてほしい。メディア有名人=公人の扱いでよいと思う。彼ら彼女らの健康状態はある程度公開してほしい。

情報をいい加減に扱う姿勢はアベ政権以降の政権で顕著になっている。不信の起点は自公政権の報道統制にある。「体調不良」は何も説明していない。コロナ禍が終息していない以上、これだけ休業があるのはなぜか、ほんとうはメディアは伝えるべきだと思う。

感想、付け足し。

「審査員をやり過ぎている」というメッセージ。「松本さんに対して何も言えない雰囲気」についても述べている。筋の通った話しで(私は素人の視聴者に過ぎないが)賛成。

 

youtu.be

ここから私の感想になる。

中田さんがいう何も言えない雰囲気については、テレビを見ながら、タブーなのだろうなぁ・・と思ってきた。さんまさんの松本氏に対する距離のとりかたについて、ちょっといろいろ感じるものはある。

さんまさんは笑いと笑いの原則に対しては、ミニマリスト的なところがあって、基本的に余計なことをしない。さんまさんは自分が好き、最高と話し続けているが、筋を通しつつも案外人の評価については柔軟だと感じる。

たぶんこれはさんまさんがサッカーをやっていたことと関係していると私は見ている。サッカーはゲーム中に局面がめまぐるしく変わり、序列を気にしているとできないスポーツである。

さんまさんと絡むと面白いのに、ダウンタウンと絡むと面白くなくなる芸人やタレントさんがたくさんいるのは、そのためだろうと推測している(たぶん、その逆はほとんどないのではないか?)。素人の感想に過ぎないけど。

さんまさんの笑いをしつこいとか、自分で場の笑いを独り占めにするという人もいるけれども、彼の原則(=笑いは緊張と緩和)から、プロとしての笑いの持って行き方がこの原則から外れていなければ、実際には意外とあっさり他の芸人さんを認めるのである。

そういえば、小林信彦『日本の喜劇人』は、ほとんどダウンタウンには触れていない。小林氏はダウンタウンをあまり見ていないから、という意味の文章を書いていたと記憶するが、「てなもんや」を関西に出かけて取材した人の発言として含みがあると思って読んだ。

好きでない芸人さんについてはあまり触れないようにするのが、小林氏の流儀と私は見ている。

小林氏がダウンタウンをどう評価しているのか、彼の文章を探してみないとちょっとわからない。自分の読書の範囲にはこれまで入ってこなかった。どこかに書いてあるのかも知れない。

小林氏はさんまさんについても『日本の喜劇人』であまり触れていない。しかし、文春の連載の方に「明石家さんま」の評価を、師匠の松之助氏との関係で書いている。これについては「明石家さんまの評価 - Notes and Drafts」の項で書いた。小林氏の本を少しずつ読みつつ、さんまさんも好きなので、この文章はちょっとうれしかった。

クセがあって、存在や、その人について触れることがタブーになる芸人さんは過去にもたくさんいた。

結局一般の人々の記憶に長く残るのは、突き抜けた人たちであった。ハナ肇ではなく植木等だったし、伴淳三郎ではなく渥美清だった。どういう突き抜け方になるかは、時代と芸人さんの生き方、作品との巡り合わせなどに係わるようだとしか言えない。

だから芸能の記憶に残るのはさんまさんであり鶴瓶さんになりそうだと思っている。漫才ではおそらくずっと漫才を続けた人(阪神巨人、中川家、その後の世代はわからないが、やはり漫才を続けた組)ではあるまいか。

私はダウンタウンとか爆笑問題は好きではない。Mー1は結果をニュースで知ってから、話題となった何組かを録画でちょっと眺める。

一般の視聴者の特権で、見たいものだけ見ていればよいわけで、深く考えずに見ていられて、ある意味、幸せかも知れない。世相について論評(コメント)をしているyoutubeの感想は書かないつもりだったが、ちょっと書いてみた。

だんだんテレビは見なくなっているので、おそらく今後こういうことは書かなくなって、また書けなくなっていくと思う。ブログで政治について嘆くのも止めたいと思っているが、ニュースを見ないようにするのも難しい。嫌だなと思うことを書いているのは、吐き出したい何かがあるということであろう。ほんとうは、佳かったこと、愉しかったことを書くべきだとわかっているのだが。