「テレビの時代」の終わり

youtubeの動画を見るようになり、いろいろ才能を持った人がいるものだなぁと気づく。

「テレビの時代」は確実に終わりつつある。

基本的に人々はテレビ視聴をしなくなっている。生活時間調査でもテレビ視聴習慣の減少は出ている。私自身もほとんどテレビを見なくなった。録画もしなくなっている。TVerのおかげかも知れないが、定時にテレビを見る習慣はなくなった。

youtubeの動画の質はずいぶん向上している。内容は玉石混淆だが、見ていると面白いものが多い。政治的プロパガンダで酷いもの、差別を助長しそうな酷い内容のものもあるが、勉強になるものもあるし、愉しめるものも少なくない。

これだけ動画があると、自分が見たいと思うものを見ていればよいという状態に変わっていく。テレビを軸にした生活はしなくてよいのである。

報道の質が低下している。テレビや新聞の政治ニュースが大本営発表型になり、政府批判をしなくなっただけでなく、基本的な事実を伝えなくなっている。政府のプロパガンダをそのまま既存メディアが流しているからである。

戦前・戦中の報道に似てきているのだろうと推察する。

道理を否認する報道が続き、道理から外れていけば、この国の将来はあまり明るいものにはならない。「ニッポンスゴイ」などと言っている状況はすぐになくなるので、非常に苦しい時代が来るだろう。報道の腐敗・退廃は衰退を加速するだろうが、報道には責任論・責任感覚がない。政府の言いなりで適当なことを流すメディアから、読者や視聴者が退出するのは当たり前である。

NHKはまともな報道をしなくなっている。ドキュメンタリーやノンフィクションでも力を落としている。修正史観にどっぷりつかった取材と報道をしていれば力を落とすのは理の当然というべきか。

芸人番組全盛に見えるが、笑いが薄い。身内の褒め合いが続いている。こういうジャンルはだいたい飽きられて衰退する。フジテレビの27時間テレビの視聴率が低かったのは、メイン司会6人を中心に、視聴者からほぼ見限られたということである。芸人たちはラジオで成功だったなどと仲間ぼめをしているようだが、数字はついてきていない。見るほどのものではなくなっていることが示されていると取る方が素直だと思う。

配信でコンテンツにアクセスする時代へ移り変わりつつある。テレビは報道そのものが政府癒着の姿勢をとることにより、テレビを見る必要がない選択を加速させたようである。テレビは臨場感を伝えられるメディアなのに、政府の言いなりになってその特性を自ら捨てたのである。エンタメも芸人にお任せでやり続けても、だんだんと「求められていない」現実が視聴率ではね返ってくる。ドラマは配信コンテンツで好みのものを見る時代へこれから急速に変わるだろう。

生活様式は大きく変わってテレビを見ない生活、とくに見なくてもよいという生活が若い世代から淡々と広がってきている。テレビ産業の傲りも、ここまでという状態になるだろう。これはテレビ関係者たちにとって、彼ら彼女らの傲慢を「過去の悪さ」の話しにできて都合がよいかも知れない。テレビには未来がない。

日々の感想を記すつもりで、ブログをやってみたのだが、極右政治に対する嘆きばかりになってしまった。そろそろ嘆きは止めて、メディアの腐敗について悲しむのも止めなければならない。もう少し自分がほんとうに好きなことを書いていくことにしよう。改憲潮流で、この国は確実に衰退に向かっているけれども、政官財メディアは衰退に加速する動きであり、衰退へ圧力をかけている。15年間の戦争の帰結を見ればわかるように政官財メディアいずれも責任はとらないことはわかっている。民主主義は再生する可能性があるが、これだと、かつて保守が言っていたような伝統の方は店じまいしていくおそれがある。自民は盛んに伝統を強調して復古主義を扇動したが、いまとなっては復古主義の扇動さえやめて露骨に戦争国家へのシフトを唱えている。旧統一協会日本会議という思想的には相容れないはずの、つまり伝統を完全否定する前者と伝統の復古を主張する後者に相乗りして改憲を強行したがっているわけだから、この分裂は失敗を予定しているのと同じであるし、どちらのセクトに引っ張られても失敗は確定である。つまりどうやってもうまくいかないことを、マスコミも翼賛しながら政財官一体で進めている。労働組合も連合のようにこの流れと一体化しているので、どうしても失敗したいと言っているのと同じである。そういう場所でこれから人生を送らなければならない若い世代には希望はないだろうし、老年世代も明るい世界を構想できなくなっている。希望のない時代を生きるとはどういうことなのか。ブログを書くということも、自分の読んだり見たりしたものを中心に少しずつ考えて行く機会とするほかないのだろう。