刺傷事件が続く国になってしまった

共通テストのときに、東京大学のそばで刺傷事件が起きた。高校2年生が理3をめざしていたが、成績があがらないので、この事件に及んだということだった。成績が思うように上がらないことが刺傷事件へどうして結びつくのか、何となくわかるようでわからない。事件を起こした高校生の気分を理解するところまではいかなかった。名古屋から高速バスで上京したらしい。

さすがに新聞記事では高校の名前は出ないが、SNSでは書かれてしまう。受験準備の根底にある息苦しさは、いまも昔も変わらないのだろう。感じたことはいくつかあるが、ブログには適さない。ここではこういう書き方しかできない。

東大生をNHK民放総出でタレント化する動きは新しい現象ではない。赤門前はテレビのバラエティの定番ロケ地になって、視聴者の目になじむようになったのはここ数年のできごとかも知れない。交通体系の発達で移動が簡単であり、名古屋から出てきてもテレビで見た風景を頼りに、ネットの地図・案内を参照すれば、すぐに辿り着く。『ぴあ』という雑誌が普及する前(ほんとうに大昔になったが)は東京へ出てきた地方の人が東京の街を自由に歩くのは難しかった。少なくともいまほど簡単に動き回れなかったはずだ。

刺傷事件の背後にある論理は昨年の小田急線の刺傷事件と似ているような気がした。うまく成功のトラックに乗れなかった人の絶望であり、自己責任論全盛のなかで個人の努力や労働をぞんざいに扱う企業社会があり、静かな絶望が他者への攻撃に転化する。刺傷事件をおこした高校生が感じていた受験のプレッシャーに同情的な新聞記事を読んだ。記事の趣旨は、いかに周囲の人々が受験の苦しさのなかにいる若い人に手を差し伸べられるかという善意のものだった。それはそれで立派な記事だと思ったが、記事を読んだあと、よくよく考えてみると、被害にあった人のことを差し置いて、東大受験の苦しさに焦点を置く記事の書き方にちょっと違和感が湧いてきた。つまりマスコミは犯人に(もちろん、建前の「裏」として、であるが)同情的なのだろうか・・。ここが小田急線の事件と異なる。東大生にも甘いが、東大受験生にも同情的である。エリート信仰の裏返しのような感覚が、メディアに浸透しているし、世間の見方にも浸透している。

自己責任論で個人をギリギリと縛る国のなかで、静かな絶望を自分の成長のために使えないほど追い詰められている人々が増えているのだろうか。いい気になって自民党世襲政治家たちが新自由主義国粋主義を組み合わせて、政治(そして経済)を私物化している。一方で、一般の人々の追い詰められた感覚は拡大し、他方で世襲政治家たちの脳天気な欲望(一般市民の堅実な努力にただ乗りして何とも思わない支配層の欲望)は何の制約もなく制裁もなく野放しになっている。このギャップは大きい。刺傷事件を起こした人、そして巻き込まれた被害者――支配層の強欲が優先される国では、自己責任論のイデオロギーの下で、ともに犯人と被害者の痛みは放置され、しばらくすると、なかったかのような扱いとなる。こういう政治が続いてよいのかどうか。よいはずはない、と常識では結論は決まっている・・。