オミクロンの時代

オミクロン株の感染力におののきながら、普通に生活するしかないので、その日その日、なんとか送るという生活が続く。気持ちが晴れることは少ないが、落ち込むこともない。コロナ禍が続くと「静かな絶望」は常態化するかも知れない。

子どもの頃を思い出すと、前に希望がまだあるような気がしていたが、歳をとると、終わりを意識せざる得ない。たぶん何かのかたちで人に迷惑をかけるような死に方になるのかも知れないが、なるべく迷惑のかからない退場になるとよいと密かに願う。

マウンティングをして他人より優位に立ちたがる人たちばかりに遭遇し、人生はつらいものになったけれども、マウンティングをしたがる連中は騒ぎ回る割に幸せではないだろうということも見通せた。仕方がないという気分で思い出せるくらいにはなった。佳い思い出ではないが、彼ら彼女らに何か、こちらの思いが残るわけではない。マウンティングをしたがる連中とは距離をとればよい。かかわらないという方針で十分やっていける。

本を読むとき、気持ちのうえで変わってきたのは、著者から直接教えを受けるという感覚で読めるようになったことだろうか。年齢がそうさせたのか、親密圏のマウンティングに絶望してそうなったのか。学校の受験のように、正解を出さなければどやされることもないので、余暇に本を読み、思うまま思いをめぐらせる時間は案外愉しい。

オミクロンの時代が運んできたのは、「内省の時代」かも知れない。マスコミは政府と癒着してでたらめを続け、テレビは芸人や業界人の自慢話・内輪話が続く。外の世界は地獄であるが、地獄のなかで、内省の時間を持つことはまだ許されているようである。思う通り、そっと愉しむ時間をつくるようにする。そして、マウンティングするだけの人々とは距離をとり表面だけにしておく。何か達成しなくても、それで十分だという気がしている。悪は悪のまま栄える。しかし、時間には隙間があり、内省と信実とともにそっと生きていくことはできる。