地上波テレビの時代の終わり

芸人さんがだらだら話し続ける番組を見て、しばらくすると、やはり時間のムダだったと感じることが多い。芸人さんのヒストリーやら悩みを聞く趣向の設定が多いが、業界内輪話で基本的にどうでもよい話しだなぁ・・と。テレビを見ている人は時間つぶしであったり、とりあえずつけているだけということも多いので、ある意味、この程度の話しでテレビの世界は成立してしまうのかも知れない。ただ中身のないものに時間を費やすよりも、何かもう少し自分のためになるように時間を使った方がよいという判断は出てくる。報道番組・情報番組に芸人さんが入り込みアイドルが入り込み、プロのジャーナリストがいなくなっている。局アナと言われている人たちはジャーナリストではないので、ほんとうは報道番組のメインにしてはいけないわけだ。深刻そうな顔をして出てくるけれども、やってる感でこなしているように見える。視聴率のせいにされるけれども、まともな報道番組・情報番組などテレビ局は作る気がないということだと思っている。

 

テレビを見なくなる。アベ政治の暴走の頃からハッキリとそうなってきた。必要なニュースはネットで拾えばよい。日本のメディアは政治に関して自民公明政権のいいなりで事実さえねじ曲げて平気になっているので、海外メディアの日本報道をのぞくようにしている。視聴者としては地上波テレビを見放したということであるが、私のような判断をしている人は案外少なくないだろうと思う。黙って見放している人たちがいるということに、たぶん自民公明両党もテレビ局のいわゆる業界関係者も気づいていないだろう。テレビが将来、市民の手に戻ってくることはないと思う。自民公明も市民社会の公共善を追求するような謙虚さはもはやなくなっている。閣僚が「ナチスの手口」と言った時点で、世界史から離脱すると宣言したようなものだ。

 

自民党が地方選で全敗というニュースが流れたが、まだわかっていないようである。地上波の業界人たちもテレビに背を向け始めている人々の存在を、まだ深刻に捉えていないだろう。ただ、終わりがあるときを境に雪崩のように起きるのか、徐々に衰退してどうにもならなくなっていくだけなのかは、現時点ではわからない。民放の女子アナがステマステルスマーケティング)に手を出していたのではないかという醜聞が流れていたが、ひとつの領域が崩れていくときは、それまで輝いているように見えたものが腐敗へ一気に進むことがある。民放の地盤沈下の背景には日本経済の衰退がある。衰退の事実を報道せず論評せずという状態で、政権の報道統制のまま、事実を伝えない方針を貫いているので問題化しないので、ひたひたと経済は沈み続けている。それでも日本はスゴイと宣伝し続けているが、それはいつの時代の凄さだったのかよくよく考えると「いまではない」ということに気づく。まじめに働く人々の大半は終身雇用の記憶がある世代であり、非正規を拡大した若い人たちは、小さく、怯えながら生活している。この事実も伝えない。大言壮語するおかしな人たちにカメラの焦点を合わせて、非合理的な政策を賛美するメディアに未来があるとは思えない。

五輪を強行しようとしているが、直前まで止めたらどうかというつぶやきがSNSにあふれるだろう。直前にやはりできないと投げ出すケースは確かに考えられるが、そのとき多くの人たちは「それは最初からわかっていた」と思うだろう。強行した時何が起こるか。おそらくテレビで芸人さんやタレント、アイドル、アスリートたちを動員して「やってよかった」の大合唱をさせるだろう。ギャラをもらいながらタレントたちがボランティアのフリをして人々の善意のおいしい部分をすくい取ろうとするような一日がかりの自称チャリティ番組に馴らされているので、視聴者は安易に受け入れるかも知れない。しかし、それはつくられた賛美だし、演出された多数派である。64年の五輪は戦後の平和を祝う、平和への願いでもあった。国粋主義者には国威発揚だったかも知れないが、民衆は平和だからこそ開催できたと感じていたはずである。今回は何もない、フクシマを放置、地震被害を放置、Covid-19への科学的対策さえせず、投げ出して、テレビを使って宣伝しただけの大会になるのだろう。心の底からほんとうによかったと感じられる基本的な要素がない。政権と政権に群がって調子よく利益の分け前をほしがる人たちの「さもしさ」が残るのだが、それはそれで時代の記録になるのかも知れない。