真の祈り

願望を念じることが祈りであろうか。

「御心のままに」と一見謙虚に祈っているように見えて、結果として他人の不幸を望む祈りを繰り返している人々の「祈り」は真の祈りであろうか。真の信仰と言えるのだろうか。神に祈っていると称して、他人の不幸を念じる自称信仰がいかに多いか。

外見は神に祈るように見えて、どれだけ信仰の名において、信者集団が他者の不幸を念じ続けているか。実質的に他人の不幸を願いながら、自分には信仰があると言い切れるのはなぜだろうか。神への祈りのような様子を見せているが、結局他人を不幸を願うという信仰の先に何があるか考えて祈る人は少ない。自分の祈りの先に神がいると思っているのだろうか。都合のよい復讐製造機のように神を扱っていてよいものかどうか。

他者の不幸を念じることで、祈りの先に神がいると、その人はどうして信じられよう。

他人が不幸になれば、その人は祈りが通じたと感じるのだろうか。