ゴッホ他殺説

画家ゴッホは自殺だったと考えられてきたが、スティーブン・ネイフ、グレゴリー・ホワイト・スミス『ファン・ゴッホの生涯』(上・下)(邦訳2016/原書2011)のように他殺だったと考える評伝がある。ゴッホの後半生を扱った映画『永遠の門 ゴッホの見た未来』(2018)はゴッホ他殺説を採っていたので映画館でちょっと驚いたのだった。

評伝と映画の影響を受けたことになるのかも知れないが、他殺説はそれなりに根拠があると感じる。そうなるとゴッホの絵の見方がかなり変わるような気がしている。

日本では、ゴッホに対する見方が歪んだ大きな要因は、小林秀雄ゴッホの手紙』であろう。この評論はそれなりに原書に根拠があるとされるのだろうが、陰鬱で異様なゴッホのイメージを広めてしまった。ゴッホ自傷や施設への入所を捉えれば、精神の不安定を軸にして彼の生涯を見てしまうことになるのだが、ほんとうにそれでよかったのかどうか。小林の文芸評論の視野の狭さを思うと、この人の書くものを標準にしてはいけないと考える。

文芸評論家江藤淳がかみついた作家が多数いるけれども、彼がかみついた作家たちの書くものが彼の言うとおり偽物だったりインチキだったりしたかと問われると、そこまでは酷くはないという感想になる。むしろ時代を越えて生き残っているじゃないか・・と思う。江藤がいろいろ言っても加賀乙彦とか辻邦生の小説は面白いのである。むしろ振り返ると文芸評論家の視野の狭さや見識のなさが目立つ。小林秀雄以来、文芸評論家が権威を持ちすぎたのだと思う。彼らはそうたいした見識はないという眼で評価の修正をした方がよいような気がしている。小林の政治への言及、江藤の政治論は概ね独善であるし、たいして政治について学んだわけではない人たちの政治的見解をことさら重要視する必要もないだろう・・。論壇や文壇で評論家が力を持ちすぎた。文芸作品が広く読まれない状況になると、彼らの権威は(事後的な評価になるかも知れないが)けっこういい加減ということでよいような気がしている。

入試問題(とくにセンター試験、共通試験など)で小林秀雄の文章なんか出さない方がよいと思う。その時代で権威を持つ評論家の言を時代がたってから検証(答え合わせ)してみると、外れているということで、何か見通したようなことを言っていた割に、瑕疵が多いんだな・・という理解でよいのだろうと思う。小林秀雄江藤淳があまりにも重く受け取られすぎた。そう考えれば、いま小説が広い読者層を失っている理由もわかる。独善と思い込みの評論を標準にしていれば、文芸の世界が近づきがたい面倒なものになる。読者の予備軍は、変なおじさんたちが書いた文章に左右されないところで、自分が良いと思うものにアクセスするだけである。文芸の世界が活力を持つとすれば、読者が良いと思うものを注意深く読んで成長していけばよい。小林秀雄的な、あるいは江藤淳的な独善の説は邪魔になるだけである。

文芸評論が独善に傾くのは、おそらく自分の特別性を信じすぎた評論家とそれをもてはやしてきた狭いサークルの人たちのせいであろう。かえってこれらの評論が文芸の世界を沈めてしまうという傾向はある。読者は面白いものをそっと探しながら読み続ける。それだけである。文芸評論の権威は無用で害悪の方が多かったというのが、感想である。